中秋の名月

こんにちは。月明設計室の中込です。

 もう早いもので10月中旬になろうとしています。今年も残りあと2カ月半。年を追う毎に毎日加速してます。年齢と時間の関係、感覚の問題ですが何か方程式があっても良さそう。何とか乗で、比例の関係にあるような気がします。…少し時間が経ってしまいましたが、先週は中秋の名月。とてもいい月が見れましたね。時間帯もよかったのか私のいる藤沢では、普段以上に大きなまんまるのお月さんを見る事ができました。ちょうど打合せ帰りの夕方6時過ぎ。くたくたになりながら、駅から出ると人々が市役所の方を見ている。

 まんまるお月さん。

 癒されました。自然豊かな場所ではないので、絵になる光景ではありませんが、まんまるお月さんは、それでも人々を惹きつける力を持っていました。月を見ている人達を見て、何だかちょっと嬉しくなります。

 月を見る習慣。今は、クリスマスやハロウィンなど外国から入ってきたものが本来の意味を失い、イベントとして盛り上がる。日本のならわしは失われつつありながらも、年を追う毎にその大切さに気付かされる。時代や世代、生きてきた過程、学んできた過程で、その時の時流、気運で変わるのが人間の宿命なのでしょうか。何が正しくて、何が間違いという事ではなく大切なものを失わないように、伝えていく事が大切なのだと思います。

 住まいも同じです。流行に流されず、本質的に大切にしなければならない事柄を、私達つくり手は、失ってはいけないのだと思います。綺麗ごとを言っているようですが、本来あるべき丁寧さやものをつくることの大変さや労力、時間をかけじっくり読み解いていくことの重要さを失っている住まいが世の中には溢れすぎています。これも年々、歳と共に住まいに関わり続けていると見えてくる現実です。一方、その事に気づき、丁寧な住まいをつくるつくり手もたくさんいます。その違いは一見するとわからない。じっくり見極めてくださいとしか言えない。設計事務所の役割は、そこにあると思います。本当の意味での良い住まいをつくる。間違わない為にたくさん思考する。丁寧さが大切なのです。

 以前、買った本「暮らしのならわし十二か月」を改めて読んで見ました。

 十五夜の月見「旧暦八月十五日に月を愛でる十五夜の月見のならわしは、唐の時代に中国から伝わってきた月見の祭事と、古来日本にあった月を祀る慣習が合わさったものだそう。古代には、欠けのない満月を豊穣の象徴と見なしたという説もあるようです。秋の実りに祈りを捧げる行事ですが、風流を楽しむイベントでもあり、平安時代には貴族たちが舟遊びをして水面に映る月を眺めたり、杯に月を映したりして楽しみました。町民に広まったのは、江戸時代の頃のことだとか。」

 旧暦八月十五日が今年は10月1日。来年は9月21日だそうです。毎年変わります。秋の夜空はとても澄んでいて月が美しく見える。その為、名月と呼ばれているそうです。「平安時代の貴族たちが舟遊びで水面に映る月を眺めたり、杯に月を映したり…」というのは、なんとも素敵な楽しみ方ですね。

 京都の桂離宮は、月見台が有名ですが、月を楽しむ習慣というのは、元々日本には古くからあった。桂離宮の月見台から月を楽しんだら、忘れられないひと時が過ごせそうですね。

「月の桂離宮」というDVDを持っています。美しい映像と写真集が付いています。その中で画家の千住博さんが桂離宮の事を「月を見る装置」と桂離宮を訪れた時の事を語っています。

「…ふと森の向うを見る。何か唐突に明るい光が出現している。月だった。それは樹木ごしに見える、未だ形をともなわないただのオレンジ色の発光体にすぎなかったが、そのことが私を大層驚かせた。何でもないような不定形の光が、これほど人を惹きつけるとは思ってもいなかったからだ。…それはたとえようもなく眩しかった。私は思わず目を細めてしまった。明恵上人の詩に あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月 とある。明恵上人は、今私が見ているこの月を歌っている。月が明るい、という事にこれほど感動するとは思ってもみなかった。いつもそこにある樹木に月がかかり、そして樹木から解き放たれるように離れ、そしてゆっくり天空に昇ってゆく。そのことに何でこれほど美を感じるのか。それはここが桂離宮だからではない。桂離宮が仕掛けてきた、日常から離れさせる装置が、私にこの世で最も大切で最も美しいことを気付かさせてくれたからだ。生まれて、今日まで50年生きてきて、今日このことに気付かされた尊さ、有難さを感じながら、私はいつまでも月から目を離せずにいた。」 千住 博

 「桂離宮が仕掛けてきた、日常から離れさせる装置…」と言う所は、桂離宮の庭園を訪れ、自分自身が普段失ってしまっていた感性を呼び戻されたという事を先に語っています。

 「…私は、一歩づつ歩くことにより、変わっていくのは風景ではないことに気が付いた。それはこの大きくもない庭園の、二週目の散策に入った時であった。一番変わったのは、私自身だった。…今まで気づかなかった感覚が私の内部に入り込んできたのだろう。ゆっくりと一周歩き、変わっていく風景に目奪われたことによって、慌ただしい日常で無意識のうちに封印してしまっていた感性の世界に、スイッチが入ったと言っていい。私はただ樹木が無風の中にあることに感動し、それが夕闇の中、暗い緑色であることに美を感じ、微風でわずかにゆれる樹木の先端に心ときめいているのだ。風景も変わり、私も変わる。すべてが変わっていく。万物流転を静かに、あまりに静かに教えてくれる桂離宮。今や水鳥が羽を小さく動かすことにさえも私は命の在り処を感じ、しばし見入っている。現代人が日々の日常の中で忘れてしまった、ただ空が夕焼けに色付くことの壮大なドラマや、夕闇に染まってすべてが濃紺に変わることの神秘や、静けさそのものが得がたい美であることを、改めて教えられている私だった。」 千住 博

 そこには失ってはならないものと大切にしなければならない感性があるのだと思います。

 私自身知らない事、忘れてしまっている事が多い。

 日本のならわしを見直さなくては。

おいしいものが食べられるならわしはすぐに復活しましょう!笑

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椅子を置いてみた 大きな掃出し窓のそばに なんだか居心地良さそう 見るような眺めはないけど空が見える 直接ひかりがあたってないのに 明るくて 爽やかで 清々しい 椅子もうれしそう ちょっと休憩したり 本を読んだり お茶を飲んだり そこで過ごす時間がお気に入りになった 縁側のような場所ができた - そこに在る豊かさ ささやかないい時間 いい住まいのご提案をさせていただきます -  

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